学校で学ぶ意味ってなんだろう?元小学校教諭の私が考える3つの答え

教育

どうして学校に行って勉強するの?

そう聞かれたら、あなたはなんて答えるだろう。

答えはたくさんある。多分、どれも正しい。

「成績がよければいい学校に入れて、いい会社に就職できて、幸せな人生が…」みたいなの、もう違うよねというのだけが確実だ。

コロナ禍で登校が制限された数年前。子どものいない教室の中で、「学校で勉強する意味ってなんだろう?」と、何度も考えた。

無料で使えるプリントがネット上で配布されていたし、芸能人がYouTubeで算数を教えてくれる動画なんて、面白いしわかりやすくて、私も何度も観ていたし。

いよいよ、学校の先生っていらなくなるんじゃないか?と、当時小学校で働いていた私は、言い知れない不安さえ抱いた。

「学校で学ぶ意味ってなんだろう?」これを読んだあなたもぜひ考えて、答えてみて欲しい。

私はどう思う?

学校は、ちょっと上の自分にチャレンジする成長の場所だ。自分と違う他者を通して、自分をより深く知る場所だ。そして1人きりでは生まれない、発見や気づきに出会える場所だ。

千葉に住む友達とzoomで話していた。彼女には中学生になる息子がいる。息子ちゃんは幼稚園の頃から療育施設に通っていて、中学校では特別支援学級で、彼の特性に合わせた学習をしているそう。

発達障害についていろいろ学んだり、同じく発達障害のある子を育てる、ママ向けのサークル運営を手伝ったり。たくさんのママと子どもに出会っているであろう、彼女がこう言った。

「ありのままでいいんだよ、ってよく言うけど、それにあぐらかいたらいけないんだよね」

穏やかな彼女から発せられる、ちょっとキツめの言葉にびっくりする。

「え、それってどういうこと?」彼女に尋ねてみる。

「その子がやれる事は、できるだけ伸ばしてあげたいんだよね。

発達でこぼこちゃん達って、できるぶんでいいよ、頑張らなくていいよって言われがちなんだけど。

そうして頑張らせない、ホントにそのままにしてるうちに、何にもできなくなっちゃう。」

息子ちゃんは高校受験を控えている。高等特別支援学校への進学予定だけど、やれる分は頑張ってもらおうと、家庭教師をつけて勉強させている。

それが良いのかどうか、わからないけどね。彼女はちょっぴり苦笑いする。一方で、家庭教師に紹介してもらった英語学習アプリを使い出して、定期テストの成績がぐんと伸びてびっくりしたんだ、という話をしてくれた。

そう、今より高いレベルに、日々チャレンジする場所が学校だ。

わが子の持久走大会にも色々考えさせられた。

私の生まれ育った沖縄には、小中高、どの学校にも「持久走大会」がなかった。体育で持久走はやってたけど、順位づけするとか、親が観にくるとか、そういうイベントごとではなかった。

だから、茨城に引っ越して小学校に上がった息子が「お母さん、持久走大会出たくない」と言い出すのも「そりゃそうだよね。私も嫌だわ」くらいの受け止め方だった。

かっこ悪いのが嫌な息子は「ぼくはどうせ、10番以内には入れない。練習はしても良いけど、本番は出ないよ」と言う。

練習はするんかい!とツッコミたいのを堪えて、話を聞く。「持久走大会、参加しますか?しませんか?」参加の可否を問う書類の提出が、明日に迫っていた。担任の先生からも催促が来ていた。

考えた結果「練習はするけど、本番は出ないそうです。本人と話し合いました」みたいなことを書いて提出した。そう言っている理由も、連絡帳に書いて先生に伝えた。

なんだかんだ、本番も出ることに決めたようだが、大会前日、湯船の中でため息をつきながら、こんなことを言っていた。

「試走の順番(順位)が、だんだん遅くなってるんだよね。嫌だなあ。」

「そっか。でも練習始めた11月の最初より、タイムは絶対早くなってるよ。」そっか、と呟きながら何を言おうか迷った。

休みの日にパパと走ってる友達もいるらしい。自分のタイムが早くなったって、みんなそれぞれに頑張ってるはずだから、順位が下がるのも不思議じゃない。

というか順位なんて、相対的なものだ。50名で走ったら1位がいるし、当然50位の子が生まれる。果たしてこの順位づけから、子どもたちは何を学ぶんだろう。

これからの学校での学びは、チャレンジのレベルも自分で調整できる、そんな学習の仕組みがスタンダードになっていくと良い。持久走だって昨日のタイムと勝負する方が、自分の変化や成長に気づけるし、やる気だって生まれる。

持久走大会当日、スタート直後に勢いよく先頭集団に突っ込んでしまい、転んだ男の子たちがいた。結構派手に転んで、泣いてる子もいる。「大丈夫?立てる?走れそうな子いる?そのまま走って!」と、慌てて声をかける先生を「そのまま走らせるんだ…」と、違和感を感じつつ眺めていた。

小学校の先生をしていた時のこと。その時はコロナウイルスの影響で、4月初旬の新学期開始が見送られた。児童用の机の上に置かれたピカピカの教科書が、早く僕たちを迎えに来て、と呼んでるように見えた。

「みんなで学ぶって、楽しいよなあ。」1人きりの教室で、しみじみ思った。

友達が考えた、予想外のアイデアに触れる。そういう考えもあるのか!って知った子の目が、キラキラする。1人でタブレットに向き合っていては、決して見ることのできない光景。学校だからこそできる、学び合いだ。

図画工作の時間に「立ち上がれ、ねん土!」という活動をした時のことを思い出した。

粘土で高さのある作品を作るにはどうしたらいいか、サッと思いついて作品づくりに取りかかる子もいれば、考えが浮かばない子もいた。

「もしアイデアが浮かばない人がいたら、お友達の様子を見てきていいよ。ヒントをもらっておいでね。」マルパクリはダメよ、と付け加えて、子どもたちに教室内を見て歩いてもらう。

「でーじすごい!これどんなして作ったの?」 「ねん土を四角くして、積んでいくのいいねー。ちょっとお手本にしていい?」 教室のあちこちで、子どもたちがやりとりをしている。それを眺めて、私はニヤニヤしている。

意見や考えの違いは、こういう素敵な場面も生み出してくれる。逆に何か決める時は言い合いになったり、喧嘩が起きることもある。そういう衝突だって学びだ。

学校は、1人きりでは生まれない、発見や気づきに出会える場所だ。教師の私たちは、これを忘れてはいけない。

コロナが落ち着いて、子どもたちが登校してきたら、「学校で学ぶって楽しいな」って子どもたちが思うような授業を、たくさんやるんだ。シーンとした教室で私は息巻いていた。

学校で学ぶ意味ってなんだろう。

繰り返しになるが、私の考えはこうだ。ちょっと上の自分にチャレンジする成長の場所。自分と違う他者を通して、自分をより深く知る場所。そして1人きりでは生まれない、発見や気づきに出会える場所。

子どもたちはもちろんだけど、教師や大人、親のわたしたちは折に触れて、問い続けよう。それは「当たり前」に自分の人生を誤魔化されない一歩にもなる。

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